長男の同級生,逝去。
北九州から急遽帰宅した長男を,通夜に連れて行った。
場所はこの間,周防大島アルプス帰りに通過した玖珂。
若干20歳での物故。
理由を聞くと,親御さんは憔悴しきって,挨拶するのが精一杯。
逝去の理由など聞き取れる状態ではなかった・・・と言う。
さもあらん。
地蔵和賛を唱え,冥福を祈る。
自分は,既存の宗教は信じない。
人を殺しあいに導き,人間関係に軋轢を生じさせ,
政治に組織的に介入して利害関係を利用しようと
するものなど宗教であるはずがない。
自分は,既存の神仏は信じない。
しかし,神仏の存在は信じている。
外的には自己・人間の知りえない・理解し得ないなんらかの大きなもの(力)
それが神仏であり,
内的には,自分の心の拠所とするものが神仏である。
それは,時として具象化・偶像化できるものであったり,
決して,形には現せないものでもあったりする。
自分は一般的に言われている霊魂や幽霊の存在は信じない。
しかし,霊をしばしば感じる事はある。
内的な心の動きかもしれない。
なくなった父が今ここにいる,と感じたり,
救ってくれた,警告を発してくれたと感じる事があるのだ。
父が亡くなった時,父は自分になった,
父は自分の中に入り込んだ,自分は父と同化したと思った。
父の血が俺の血の中,体の中に脈々と流れている。
いや,なくなった時にではない。
それは,父が亡くなる数時間前,父と最期の出会いの時。
昏睡していた父は,俺の存在がわかったらしく,
かっと目を見開いて,なにか言いたそうにした。
瞬間,父の言いたい事がわかった。
「無理しなさんな」そう告げた俺に安心したかのように,
父は安らかに目を閉じた。
その足で俺は葬儀社に向かった。
普通には不謹慎と思われるかもしれない。
だが俺にはそんな事はどうでもよかった。
父は俺に「あとは頼んだ」と言ったのだ。
技術者で宗教など信じるような人ではない,と思っていた父が
実は信心深く,形式や常識を大事にする人だと知ったのは,
俺が結婚してからだ。
俺は,父が望むような葬儀を出すために葬儀屋に向かった。
俺が葬儀屋の敷居をまたいだその時刻に父は息を引き取った。
キリスト教の愛と奉仕の精神に納得し,
不安な時には,観世音菩薩と般若心経を唱え,
心迷った時には,金剛禅宗と少林寺拳法に教えをこう。
父が亡くなった時には,親鸞の教えと念仏に癒され,
子供を亡くした時には,地蔵和賛を唱えて,
決して嘆き悲しむなかれ,
と諭してもらう。
それが俺の信仰だ。
再度,冥福を祈り,一刻も早くご両親が心の平穏を取り戻される事を祈る。